新川周辺の城跡、史跡 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

頼政塚、入定塚 [新川周辺の城跡、史跡]

結縁寺ウオーキング2 002.jpg
結縁寺谷津 009.jpg
結縁寺の近くにある頼政塚と入定塚について投稿いたします。
治承四年(1180)四月、頼政は後白河法皇の第三皇子の以仁王と平家打倒に挑みましたが
挙兵に失敗し宇治平等院の境内で自害したといわれています。
この頼政の首を埋めたのが頼政塚です。頼政は死に際して家臣に「我が首を持ち東国に行け、
我が止まらんと欲する処に行かば首が重くなって動かなくなる。そこに塚を築いて首を葬れ」
との伝説があります。頼政と以仁王の挙兵は失敗に終りましたが、その影響は大きく
以仁王の令旨を奉じた源頼朝や木曾義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、
治承、寿永の乱の幕を明けることになります。
結縁寺の鎮守である熊野神社に登る石段の手前にあるのが頼政の遺徳を慕って伊勢の国から
訪れた女性が入定したと伝えられている入定塚です。
頼政の首を運んできた馬を葬った名馬塚も近くにあるのですが見つかりませんでした。

結縁寺 [新川周辺の城跡、史跡]

結縁寺谷津 001.jpg
結縁寺谷津 002.jpg
晴天山西光院結縁寺の開創は奈良朝の神亀年間、僧行基全国暦遊の際にこの里の小堂留鎮し、
天晴るる時白蓮井戸(花井戸)に影現するを観て、仏法東漸相の霊地となし、自ら阿弥陀尊の像を
謹刻し一寺を建立したと伝えられています。
結縁寺由来によると天慶年間、真言僧がこの寺で結縁灌頂を修したのが結縁寺の名起こりで、
六坊の成立を促し結縁寺の繁栄を確かなものにしていきました。
また、江戸時代には正保年間、江戸幕府キリシタン奉行井上筑後守がけ結縁寺の領主となり
頼政公供養のため、五輪塔を奉納したと記されています。
その後火災に遭い、元禄以後次第に荒廃しましたが、14世紀初頭に造られた国指定重要文化財
の銅造不動明王像が現存する建物と残っています。

結縁寺谷津 [新川周辺の城跡、史跡]

結縁寺谷津 018.jpg
結縁寺谷津 017.jpg
朝日新聞と森林文化協会が募集した「日本の里100選」に結縁寺谷津が選ばれました。
対象は人々の暮らしによって育まれた美しい里、集落やその周辺の田畑や草地、海辺や水辺、
里山などの自然からなる地域です。
景観、生物の多様性、人の営みの3要素を選定基準としたそうです。
結縁寺地区の谷津が選ばれた理由は「首都圏近郊に残る谷津・・千葉ニュータウンのすぐ近くにある
76haの谷津地区。田、畦、斜面林のほか、ため池などの水辺環境も健在、鎮守の森も残る」
だそうです。千葉県からは他に南房総市の共有林が選ばれています。
今日は、「日本の里100選」に選ばれた結縁寺谷津を投稿しましたが、地名の由来ともなった結縁寺
や頼政塚、草深の森なども投稿したいと思います。

松虫寺 [新川周辺の城跡、史跡]

松虫寺 007.jpg
松虫寺 006.jpg
松虫寺 008.jpg
梅雨入し、紫陽花の季節になりました。今日は紫陽花のきれいな印旛村の松虫寺にまいりました。
ここは聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)伝説で有名です。
松虫寺 003.jpg
松虫寺までの道路も「あじさい道り」と名付けられて紫陽花が沢山植えられていました。

佐倉順天堂と江原刑場跡 [新川周辺の城跡、史跡]

山武、新川の桜 023.jpg
佐倉順天堂は天保14年(1843)に佐倉藩主堀田正睦により招かれた蘭方医佐藤泰然が開いた
蘭方医学の病院と塾です。当初は現在地の向かい側にあったそうですが、安政5年(1858)に
現在地に移されました。当初としてはかなり高度な医学を実地に学んでいました。
のちに明治時代の医学界をリードする人材が育成された由緒ある史跡です。
宮ノ台の桜 012.jpg
国道296号線を佐倉から臼井の方に行くと、右手に「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ供養塔
があります。ここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った所です。
天保14年には佐倉藩医、鏑木仙庵らによって刑死者の腑分け(解剖)が行われました。
このような、解剖が行われたのは、佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期
のものだそうです。

豊作稲荷神社 [新川周辺の城跡、史跡]

安曇野、上越2 004.jpg
八千代から白井、鎌ヶ谷経由で松戸の行く途中にこんな切実な名前の神社があります。
資料によると、明治2年の初富開墾の際、富商湯浅七左衛門が開墾事業を担当主宰した
地域が初富地区で、その地を湯浅里と称し明治6年に豊作稲荷神社を建立したそうです。
いかにも、豊作を切実に願っていたことが窺われますね。

旧堀田邸 [新川周辺の城跡、史跡]

山武、新川の桜 024.jpg
山武、新川の桜 025.jpg
山武、新川の桜 026.jpg
山武、新川の桜 028.jpg
旧堀田邸は最後の佐倉藩主堀田正倫の別邸として明治23年(1890)に竣工したものです。
現存している建物は母屋、土蔵、門番小屋、茅門などがあります。
間取りは近世武家屋敷の形式を引き継ぎつつ、近代の生活に合わせた部分もみられ、
明治期における上級和風住宅の特徴を良く残しています。
このような、明治期に於ける和風住宅と庭園が共に残された旧大名住宅の遺例は
全国にも珍しいものだそうです。
私達が訪れた日には、旧堀田邸を使ってドラマのロケをしており、撮影風景を見学してきました。

師戸城跡 [新川周辺の城跡、史跡]

宮ノ台の桜 011.jpg
宮ノ台の桜 014.jpg
宮ノ台の桜 013.jpg
久しぶりに師戸城跡に行きました。師戸城は臼井城と印旛沼をはさんで対峙する位置にあり臼井城の支城のなかでも規模の大きな城です。
一の丸跡の梅林の花びらは散りましたが、桜はまだのようです。印旛沼の水面で空気が冷やされるのか、開花時期もゆっくりです。土塁の土にも草の息吹がありません。
冬の間、印旛沼に来ていた鳥達も北国に帰る準備をしているようです。
静かな湖面には小船が波紋を描きながら進んでいます。

阿多津の祠 [新川周辺の城跡、史跡]

臼井周辺 011.jpg
臼井城跡から東南に500m、印旛沼の近くに、江戸時代の延享4年(1744)に造立された石祠があります。これを地元では「おたつさま」と呼んでいます。
昔臼井城主であった臼井祐胤の死後、後見人の叔父志津胤氏によって、幼少の竹若丸の殺害が企てられた時、乳母阿多津が竹若丸を助けて鎌倉に逃がしました。
しかし阿多津自身は胤氏の配下の者に追われ、印旛沼の畔の葦原に隠れていましたが、咳をしたために捕らえられて殺害されてしまいました。
村人はこれを哀しみ、祠を建立し阿多津を祀ったことから、ここに麦こがしとお茶を供えてお願いすれば、咳がなおると云われるようになりました。
阿多津の祠はやがて咳神と呼ばれるようになり、今もその信仰が伝えられています。

長源寺、道譽上人 [新川周辺の城跡、史跡]

臼井周辺 005.jpg
臼井周辺 006.jpg
原胤栄が元亀元年(1570)に臼井城主になった年に、胤栄が道譽上人を招き、「新大巌寺」として創建され、安永元年(1772)に火災で焼失するまで、宿内砦のある台地上にあり、その台地は
長源寺山とよばれていました。
かっては、長源寺自体がいわゆる城郭寺院として砦の役割を果たしていたと考えられます。
長源寺はその後、山裾の現在地に移された。
道譽上人は弘治元年(1555)に芝増上寺9世の貫主となり、その後長源寺を開山、天正2年
(1574)に60歳で死去した。
臼井周辺 008.jpg
長源寺墓地には、道譽上人の五輪塔と無縫塔がある。
臼井周辺 007.jpg
台地上の宿内公園、城跡らしい雰囲気が漂っています。

前の10件 | 次の10件 新川周辺の城跡、史跡 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。