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臼井八景 [新川周辺の城跡、史跡]

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円応寺所蔵の「円応寺草創記」によると、暦応元年(1338)に臼井氏中興の祖臼井興胤により創建されたと云われています。以来臼井家の菩提寺として崇敬されてきました。
寺領は広く風光明媚で知られ、臼井城跡とともに「城峰夕照」として臼井八景の一つに数えられました。
また、境内には美しく整えられた庭園があり、臼井家代々の墓と忠臣岩戸安の墓があり、寺の屋根や窓には星神社と同じ「日月の紋」があり臼井家との縁の深さが伺われます。

臼井八幡社の大楠 [新川周辺の城跡、史跡]

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臼井八幡社は暦応元年(1338)臼井興胤によって創建されたと伝えられています。
祭神は応仁天皇です。縁起によれば、臼井興胤が足利尊氏に従って九州を転戦し、
延元元年(1336)に筑前国多々羅浜(福岡県)で菊池武時と戦う前に宇佐八幡に祈願したところ、合戦に大勝したところから、自分の領地である臼井に宇佐八幡を勧請し祀ったと云われています。
江戸時代には、境内に大きな楠がありました。この楠は臼井興胤が九州の宇佐八幡から持ち帰って
植えたと伝えられ、成田街道の名物の一つでした。
しかし、現在は枯死し、4mほど残された木が神木として保存されています。

志津大口館 [新川周辺の城跡、史跡]

志津大口館は下志津の東邦大学病院の南方500mの台地にあります。
台地の端にある、春日神社と報恩寺の間の民家や報恩寺の西側の墓地や竹林になっている一帯が城跡と思われ、あちこちに土塁が見られます。
志津大口館は名前の由来もわかりません、中世の城館跡であることは間違いありませんが詳細な成立時期や城主はわかりません。
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報恩寺は山号を大雄山といい、臨済宗妙心寺派の寺であるが、志津次郎胤氏が開基と伝えられています。
報恩寺という名前は志津次郎胤氏の両親への報恩という意味のことで、寺紋は千葉一族の寺らしく九曜である。
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報恩寺や春日神社など周辺には樹齢600年の古木が沢山あり、志津城跡の上志津の天御中主神社の境内に残る古木と同じくらいの樹齢です。

小竹城跡 [新川周辺の城跡、史跡]

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佐倉方面に出かけるときによく通るのですが、ユーカリが丘を過ぎた辺りに小竹城跡があると聞いていたので探しに行きました。
ユーカリが丘を過ぎて、ガソリンスタンドの脇を左折してまもなく左手に車がやっと1台通れるような細い道があるので入って行き小竹城跡の虎口や土塁を見つけました。
小竹城は小竹五郎高胤の居城で、小竹氏はのちに帰農して高橋惣兵衛と改めたといいます。
付近には、高橋姓の家が多いそうです。


加賀清水 [新川周辺の城跡、史跡]

成田街道を勝田台駅前から800mほど志津に向かって歩き、信集講の岩田長兵衛の建てた道標のある角を左手に20mほど入った処に加賀清水はあります。
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加賀清水の名は、延宝6年(1673)から貞亨3年(1683)まで佐倉藩主であった大久保加賀守忠朝が江戸参府の際に、いつもこの清水を賞味したことに由来すると言われています。
この湧水地は加賀殿清水、井野清水、加賀清水と名称を変えながら現在まで残されてきました。
天保年間(1830~44)頃には、近くの茶屋林屋がこの清水を使って湯茶を飲ませ、名優7代目市川団十郎(1791~1859)も立ち寄ったと、云われています。

上志津散策 [新川周辺の城跡、史跡]

志津地区では上座地区を歩きましたが、今日は上志津の志津城跡を中心に散策します。
「新川周辺の城跡、史跡」では新川を歩いていて、城橋傍にあった石碑に近くの米本城跡にまつわる記載が載っていたことから始まりました。
興味を持って歩きはじめると、吉橋城跡、先崎城跡、井野城跡、師戸城跡や、まだ訪れていない小竹城跡など多くの城跡が新川やその支流の小竹川、手繰川に沿ってあることがわかりました。
これらの新川周辺の城址は戦国時代は臼井城の支城で上杉謙信や配下の太田道灌に攻められ江戸時代になってほとんどが廃城になるまで栄枯盛衰の道を辿ってきました。
今日は、上志津地区にある志津城跡を中心に散策します。
志津駅南側の通称「水道道路」にあるホームセンターから志津駅前まで歩き、マツモトキヨシの前を右折します。400mほど行き右手に曲がる道を行くとテニスコートがありました。
テニスコートの隣の家の敷地の中に稲荷神社が見えるのは18代続く名家の豊田家で公選1号の知事が出ています。
豊田家を過ぎて四街道上志津線の舗装道路を越えると右手に保存樹のシイがそびえる天御中主神社(アメノミナカヌシ)にまいりました。
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ここの周囲が志津城跡で片隅に天御中主神社(もとは妙見神社だったそうですが)が祀られています。志津城の城主は志津次郎胤氏でした。
つぎに、近くの長屋門のある中村家を訪ねます。
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中村家は代々名を中村三郎兵衛と称し佐倉藩堀田家の家臣でこの地で道場を開いていたそうです。長屋門の建築年代は不明ですが母屋が文政元年(1818)の建築なので、おそらく同時期と考えられます。
近くにある市街地の調整池傍を通って西福寺に行きます。
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西福寺は真言宗豊山派で山号は清水山、三百数十年前に井野の名刹千手院の隠居寺として建てられました(現在は無住)。
寺の裏手に明治6年(1873)開校の井野小学校跡があり、現在はゲートボール場になっています。
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近くの南志津公園に行きます、この地域は新しい住宅地のなかに昔からのたたずまいを残す大きな屋敷などが点在していてウォーキングをしていてもやすらぐことが出来ます。
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南志津公園です、沢山の樹木があり、藤棚やトイレもあります。

臼井城跡周辺 [新川周辺の城跡、史跡]

臼井城跡には何度か訪れましたが、今日は臼井城跡周辺の史跡を見にまいりました。
296号線の中宿交差点の手前にあるスーパーマーケットの脇から坂道を登って行くと、小さな公園があります。
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この公園は前方から街道を一望できるので、敵兵の見張台の役目をしていたと推察できます。
公園を過ぎてまもなく道を右折して歩くと臼井城跡を取り巻く空堀の一部が見えてきました。この空堀の規模は大きく、最大で幅40m、深さ15mもあるそうです。空堀の傍らには雷電の碑が立っています。
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空堀の近くには太田図書の墓があります、臼井城は太田道灌、上杉謙信らに攻められたことで有名ですが、文明2年(1479)上杉氏の家臣太田道灌が千葉孝胤の籠る臼井城を攻める、この戦いで太田道灌の弟、太田図書が討ち死に致します。
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旧三の丸跡には臼井城の鬼門に設けられた星神社があります。星神社は鎮護国家、除災、寿福の菩薩で千葉氏の一族にとってはその祖平良文以来の守護神であって、その所領には必ず妙見をまつっています。
左手の架台のようなものは歌舞伎を舞う舞台だそうです。
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帰り道で妙伝寺に立ち寄りました、暁慶山妙伝寺は日蓮宗で創建は弘安6年(1283)開山は松戸市平賀本土寺代第三世日伝上人です。宝暦8年(1758)建立の紅い鐘楼門は先日訪れた青菅の設楽家と日運が落成させたものです。
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青菅地区の史跡 [新川周辺の城跡、史跡]

佐倉市の青菅地区の史跡を訪ねます。青菅は井野、宮ノ台と新川の中間に位置して、独特の風習を残した地域です。今日はユーカリが丘の和洋女子大グラウンドから畑や小竹川を渡って行きます。
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畑の中を歩いていると、山林の中に右手に登る細い道があります、この道かなと見当をつけて狭くて昼なお暗い道を登ってゆくと途中に水で落ち葉や土が湿っているところがありました。
山を登りきったところに西行清水の看板が立っています。
小竹、井野を望む絶景に西行法師が「道の辺に清水流れる柳影しばしはここに杖とどめにけり」と詠んだと伝えられております。
市内には湧き水が五百七十カ所あり、加賀清水などが有名です。
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青菅小学校のプール側を通り青菅稲荷社の前を通りバス通りに出る、臼井方面に歩くと、左手に旧青菅分校が見えてきた。明治三十六年、志津北尋常小学校の青菅分校として設立、二つの教室と一つの教員室があります。五十二年に廃校になりました。
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青菅分校に来た道を少し戻ると右手にかやぶきの重厚な設楽家旧宅が見えます。東日本で最古の部類の民家だそうです、同家古文書によれば、慶安年間(1648~1651)に建てられ、戦前には土塁があったようで、帰農した武士の居館とも考えられ佐倉市の文化財に登録されています。
もと来た道を青菅稲荷社の前を通り戻ります。
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建立は元禄六年(1693)川口攝津守が妙見社と共に建立、千葉氏の星神社が合祀されています。

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